原爆は広島と長崎の多くの人の命をうばい、日本だけでなく世界中を核戦争の恐怖に陥れました。 戦争が終わった後、世界中の様々な人たちは「原爆投下は必要だったのか?」ということを考えます。 ①アメリカが主張する「原爆を落とした理由」 S/Sgt. https://twitter.com/55kurosuke/status/630124130336051205, 次回のコメントで使用するためブラウザーに自分の名前、メールアドレス、サイトを保存する。. James M. Ryan -- USAAF 韓国原爆被害者協会は、広島と長崎で被爆した朝鮮半島出身者が10万人にのぼり、半数近くは、その場で死亡したと推定しています。 帰国した人も、日韓の両政府からの支援を受けられるようになるまで、長い年月を費やしました。 本当ですか?>原爆は上から落としたのではない B-29で運んできて上から落とした以外に当時は使いようが無いです。そうじゃないってんなら下から撃ち上げたのか地上をごろごろ移動してきたのかって話になりますが、それは広島がすでに 被爆後彼には医者も診たことの無い症状が出始める。被爆後彼の顔に赤い斑点が出始め、喉は腫れ、呼吸と食事をするのを困難にした。そして体の皮膚にはヒリヒリする痛みが出始め、彼は9月2日こん睡状態で亡くなった。 19 広島 足を焼けどした人 2nd/Lt. デトロイトのキャンプ場で被爆証言をした時には、来ていた人から、 「8月6日は、ラジオで原爆が投下されたと聞いて、お祝いをしました。」 と言われ、ほんとにショックでした。 小学校を訪れた時には、新聞紙で鶴を折ってあげました。 Charles O. Baumgartner -- USAAF John A. 立場が逆で、日本が米本土の原爆を落としても、米国はその主張に納得できるかとただしたい。 日本は世界で唯一の被爆国である。日本人が絶対に忘れてはならない「歴史の事実」である。 松本「原爆開発に関わってエノラ・ゲイにも乗ってキノコ雲撮影もしたアメリカ人が60年ぶりに広島に来たんですよ、 今年。そして被災者と話したんですよ。で、そんな話になるじゃないですか。今でも我々は苦しんでるみたいなことも S/Sgt. Ralph J. Neal -- USAAF A/3C. (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); https://twitter.com/55kurosuke/status/630124130336051205. 拙著『原爆体験:六七四四人・死と生の証言』の冒頭、私はつぎのように記 した。 -被爆体験という四文字には、人びとが何に被爆したのかを指し示す言葉 が欠けている。また、〈原爆体験〉とは、被爆当時の「あの日」の体験のみ 原爆 アメリカ(シオニスト)が大東亜戦争で広島長崎に落とした原爆。 それは使ってはいけないものだと分かっていたのに、実験のために使った。 日本人はモルモットにされたんですよ。 当時のこのことについては腹立たしい限りです。 The bravery, suffering, and devotion to duty . Lt. JG, Raymond G. Porter -- USN earned them a preeminent place in the hearts of all Americans. これが原爆の「リアル」。被爆者は原爆と日本政府による棄民政策の犠牲者となった。 . マンハッタン計画に参加した米国の研究チームは、ナチス・ドイツが降伏した後の1945年7月に原爆実験を成功させていた。 トルーマン大統領は、ヘンリー・スティムソン陸軍長官が議長を務める諮問委員会に、日本に対して原爆を使うべきかどうか判断するよう指示していた。 「当時の委員会は、攻撃を支持する見解でほぼ一致していた。スティムソン氏は断固として原爆を使用すべきという意見だった」。米ミズー … 広島原爆で被爆したアメリカ人(ひろしまげんばくでひばくしたアメリカじん)は、1945年8月6日広島市への原子爆弾投下で被爆したアメリカ人。 Long, Jr. -- USAAF 被爆者の今年の平均年齢は79歳を上回った。戦争体験や被爆体験を語り継ぐ世代が少なくなると同時に、戦争や原爆に対する国民の理解がいよいよ薄まってきている。そんな中、7月には集団的自衛権の行使を容認する閣議決定がなされ、再び日本は戦争への道を歩もうとしている、と懸念する声も少なくない。, IWJは広島、長崎の平和記念式典を取材するとともに、戦争、原爆体験者の生の声をすくい上げ、語り継ぐべく、8月9日、長崎原爆被災者協議会で事務局長を務める被爆者の山田拓民さんに話をうかがった。, 山田さんは長崎市鳴滝にあった県立・長崎中学校で原爆投下の瞬間を迎えた。当時、山田さんは旧制中学の2年生、14歳だった。学校は爆心地から約3.3キロのところにあった。, 「原爆破裂時は、とにかくびっくりしました。大きい音と目が潰れるような光で、校舎も揺れて。教室の中の一人が咄嗟に『危ない!』と叫んで、みんな机の下に潜り込んだんです」, 原爆の音と、校舎の壊れる音が静まり、気味が悪くなった山田さんは机の下から出た。ケガはなかったが、教室の窓ガラスは全部壊れていて、ガラスの破片が机や壁に突き刺さっていたという。当然、生徒も教師も、自分の身に何が起きたのかはわからない。山田さんは、当時の複雑な心境をこう振り返る。, 「当時の空襲は爆弾や焼夷弾などを落としていって、一面が火災になる印象があった。ところがボロ校舎も壊れないし、近所の家を見ても、屋根瓦はぐちゃぐちゃだったけど壊れた家もなく、火の手が上がっている気配もない。何が起こったかわからないというのが正直なところでした」, 教師に促され、その日、生徒らはすぐに下校した。山田さんの自宅は、爆心地からわずか800メートルのところにあった。家が近づくにつれ、被害の様相が変わってくる。「人間がこんなにめちゃめちゃになるのか、という光景にぶつかったんです」。それまで長崎は空襲も少なく、山田さんは怪我人や死者を見る機会は少なかったという。, 「めちゃくちゃになった人間を見るのは初めてだったから、びっくりして、自分の家のことが心配になったんです。原爆体験者は、よく『首をもたげた赤ん坊をおんぶする母親がいた』なんていう話をしますが、私はあたりを見回す余裕もなく、一所懸命に歩きました」, 山田さんは父(当時48)、母(36)、姉(16)、次男の弟(12)、そして三男の弟(9ヶ月)と、6人家族で暮らしていた。家に辿り着くと、家屋は潰れていたが、母と姉、二人の弟にはすぐに会うことができた。, 長崎商業学校で教師として働いていた父はその日、生徒たちの学徒動員先だった三菱兵器工場(現在の長崎大学。爆心地から1.3キロ)にいた。その日、父は帰ってこず、山田さんたちは自宅周辺の路上で夜を越した。しばらくの間、自宅周辺の地べたで横になって過ごす生活を続けた。その間も父は帰ってこなかった。, 原爆の爆発の影響で母は首に裂傷を負い、弟は両腕に無数のガラス傷を負ってはいたが、それぞれ命を失うほどの怪我ではなかったという。ところが、3日後の8月12日、事態は一変した。かすり傷ひとつなかった生後9ヶ月の弟が、突然、息をしなくなったのだ。, 「長崎では『ぐぜる』と言うんですけど、死んだ弟は、ぐずぐずと変な泣き方をしていたんです。母が必至にあやしていたが泣き止まず、力なく泣き続けていました。それがおさまったので、『泣き止んだか』と思ったら、『隆史ちゃんが息しなくなった』と母が言ったんです」, 手をあてても呼吸がない。そうこうしているうちに、心臓が止まった。身体には傷ひとつなかったのに、なぜ、突然、赤ちゃんが死んだのか、山田さんたちにはわからなかった。その夜は、母が死んだ赤ちゃんを抱いて寝た。翌朝、今度は姉が冷たくなっていた。, 山田さんは、「姉は打撲などをして痛かったのかもしれないが、苦しくて動けない。ということでもなさそうでした。よく、横になっていたのは知っていましたけど、姉がこの間、どうしていたかは見ていませんでした」と淡々と振り返った。, 原爆から3、4日が経ち、道端の死体が腐り始め、悪臭が立ち込めた。あちこちの畑で、生き残った人たちが、亡くなった身内の遺体を焼いていた。, 「姉や赤ん坊の死体も2、3日で腐ってしまう。『腐る前に焼くべきだ』と母に言いました。母はびっくりしていましたが、燃える材木を探し、畑に集めて、周りのやり方を真似しながらマッチで火を点けて、シャツだけ着せて、遺体を焼きました」, 山田さんは、「本当にむごい焼き方だった」とこぼす。生き残った山田さんたちは、父の実家で、山田さんの祖母が住んでいる諫早市に、すでに運行していた汽車で向かった。姉が死んだ翌日、14日のことだ。, 諫早は、長崎市から25キロほど離れたところにある。諫早では、消息不明だった父との再会が待っていた。, 「原爆が破裂したとき、父は窓側にいたようで、おでこから上は庇(ひさし)の影になっていたようで傷はなかったんですが、顔、胸、お腹、両腕はすごい火傷を負っていて、父は福耳だったんですが、耳たぶは溶けていた。背中は大きな切り傷があった。はじめ見たときは、『これはもうだめだ』と思った」, 父の入院する海軍病院に空きがあり、負傷していた母、弟も入院することになった。その頃、弟は血の混じった下痢をしていたが、当時、そうした症状の人は多かった。父母は6人部屋で同室だったが、弟は、医者から「赤痢」だと診断され、隔離病棟に入った。, 母の身体にはその後、あちこちに赤い斑点があらわれ、身体が動かせなくなった。8月23日の午前中、容態が悪化した。, 「母の意識はなくなってきていましたが、医者は『そんなにすぐは死なないだろう』と言っていました」, その日、山田さんが買い物に走ったり、別病棟にいる弟のお見舞いをしている間に、母は息を引き取った。原因は不明だ。, さらに翌24日の朝、祖母の家にいた山田さんに再び訃報が届く。弟が亡くなったのだ。山田さんが最後に弟を見舞ったときには、だいぶ衰弱し、起きているのか寝ているのかわからない、うつろな状態だったという。山田さんが病院に駆けつけたときは、すでに弟の遺体は片付けられてしまっていた。, 「父は、『こんな病院にいたくない』と言いだしたわけ。母も弟も死んだ場所ですから、『こんなところにいたら殺されてしまう』という気になったんじゃないですかね。医者も、父の容態を諦めていたのか、おばあちゃんの家で養生することを認めてくれて、外科の先生に往診してもらえばいい、ということで退院することができました」, もっとも外傷が酷く、手遅れに思われた父は徐々に回復し、翌1946年の夏から教師として少しずつ復職を始めた。その後、約16年間生き、1961年12月に肺癌で他界。64歳だった。, 山田さんは、「家族全員が原爆の影響で亡くなった」と確信している。海軍病院で亡くなった母、次男の弟の死亡診断書には「原爆死」と書かれた。家の周辺で亡くなった姉、三男の赤ちゃんには死亡診断書もない。のちに、口頭で「現地で死んだ」と伝えたという。, 山田さんは、原爆に対する驚きなどの感情を詳細に表現する反面、家族の死については、なぜか淡々と時系列順に事実を述べるにとどまっていた。, 山田さんは、「母が死んでも、小さな弟が死んでも、姉が死んでも、上の弟が死んでも、変な話だけど、泣かなかったのよ」と明かす。, 「涙が出なかったのよ。『ああ、死んだか』って。病室の中でもね、次々死んでいくわけ。だから、『ピカにあたった連中は死ぬ』という話が伝わっていたわけよ。長崎を出る前からそういう話は回っていたんです。外からみても怪我がない病人が次々死んでいく。そうするとね、『あのピカに当たった連中はみんな死ぬ』という話が、本当のことだと聞こえてくるわけね」, 山田さんは、「だから弟が死んだときも、『お兄ちゃんもすぐあとで逝くけんね』という気持ちで。『私も死ぬ』という気持ちはありました。別れて悲しい、というよりは、『すぐあとで行くよ』と。, だからだろう、と思う。後から考えれば、母が死んだとき、子どもなら、遺体にすがって泣くのが当たり前なわけだから。『なんで俺は当たり前じゃないのか』って考えたこともあったしね。そんなことを考えると、今になって涙が出てくる」と語り、涙を拭いた。, 1942年に制定された「戦時災害保護法」は、空襲死亡者の遺族や戦災障害者、住宅や家財が破壊された者などを保障し、また、負傷者救助のための施設や食品の供与、医療、助産の保障を定めている。, しかし、戦時災害保護法そのものはGHQの命令で1946年9月に廃止されるのだが、1945年の10月5日には広島で、10月8日には長崎で、戦時災害保護法による行政からの救助は打ち切られ、すべての救護所が閉鎖した。, マンハッタン計画の副責任者として広島、長崎の影響調査にあたったトーマス・ファーレルは、1945年9月6日、東京帝国ホテルで海外プレスに向け、「広島、長崎では、死ぬべき者は死んでしまい、現在、原爆の放射能のために苦しんでいる者は皆無だ」とする声明を発表した。占領軍は、報道関係者などの広島、長崎への立ち入りを禁じるなどの言論弾圧も行った。, こうした背景を踏まえ、山田さんは、広島、長崎という被爆地で、戦時災害保護法の適用が打ち切られたのは、原爆被害の実態を公にしたくない米国に対し、日本政府が遠慮したからだ、とにらむ。, 「救護所がなくなると、怪我をした被爆者はどうしようもないですから。焼け跡に小さな小屋作って暮らしたり、親戚のところに転がり込んだりして、みんなから見えないところで暮らした。本当に放り出されたんです。, 被爆者は、社会から見えないところで暮らさざるを得なくなる。悪口を言う人も出てくる。住むところがなく、親戚を頼ると、『被爆者だから近くによるなよ、病気が移るぞ』と言われる。まともな暮らしができない状況に追い込まれたんです」, 「核と人類は共存できない。核には、きれいな核も、汚い核もない」 ~岩上安身によるインタビュー 第328回 ゲスト 谷口稜曄(すみてる)長崎原爆被災者協議会会長 2013.8.9, 「集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじる暴挙」はアドリブか 被爆者代表、安倍総理の眼前でスピーチ 2014.8.9, 「川は『人間の筏(いかだ)』だった」広島原爆体験者が伝える戦争の恐怖と反戦の意義 2014.8.6, 68回目の原爆の日、田上市長が日本政府を厳しく批判 ~長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典 2013.8.9, 「母が、弟が死んでも涙がでなかった」 長崎原爆で家族全員を失った被爆者の告白、自らも覚悟した被爆死(原佑介記者) http://iwj.co.jp/wj/open/archives/161708 … @iwakamiyasumi Normand Roland Brissette -- USN. 原爆小頭症の人たちが苦しんだのは、被爆者であることと、障害者であることへの二重の差別。小頭症として生まれたという理由だけで、きょうだいにも差別が及ぶことを心配した肉親と離れ離れにされた人 … Durden Looper --- USAAF 原爆で被害にあわれた方は何人くらいですか? 長崎原爆資料館へリンクします>> 原爆の熱線による被害はどんなものですか? 広島平和記念資料館にリンクします>> 被爆後、水を飲むと死ぬと言われていたのはなぜですか? 広島平和記念資料館にリンクします>> S/Sgt. Their heroism is a beacon to follow forever. 放射線が人間の臓器をどう蝕んでいくのか。200人を超す被爆者の遺体を解剖した記録もありました。 調査の対象となった被爆者は2万人にのぼりました。治療はほとんど行われず、原爆が人体に与える影響を徹底的に調べていたのです。 調査された被爆者 Buford J. Ellison -- USAAF Cpl. 第二次世界大戦を終結させるうえで、原爆投下は本当に必要だったのか? ピュー研究所の調査(2015年)によると、アメリカにおける65歳以上の70%が原爆投下は「正当だった」と答えていた。しかし18〜29歳になると、「正当だった」と答える割合は47%まで下がるという。 タイトルどおりです。広島、長崎の原爆の時、原爆を飛行機から直接落としたアメリカ人は生きていると聞きました。本当ですか?もし本当であれば、その人がおっしゃっているコメントなどがあれば教えてください。ご健在らしいですね。彼を 広島原爆で被爆したアメリカ人(ひろしまげんばくでひばくしたアメリカじん)は、1945年8月6日広島市への原子爆弾投下で被爆したアメリカ人。, アメリカ政府は直接被爆したアメリカ人捕虜が10人いたと認定、日本の民間団体・歴史研究家の調査では12人いたとしている。朝日新聞社系のみ2014年現在直接被爆者を13人としている[1]が内訳は不明。その他にもアメリカ政府は認定していないが、入市被爆したアメリカ人捕虜が10人、日系アメリカ人および日本国籍を取得したアメリカ系日本人にも被爆者はいる。本項では特に被爆したアメリカ人捕虜を中心に記載する。, 広島は、元々陸軍第5師団の拠点であり”軍都”として発展し、太平洋戦争末期には本土決戦に備え第2総軍司令部が置かれ、軍事的な拠点としての役割が強まっていた[2][3]。, 太平洋戦争時、連合国側の民間人は敵国人として集められ抑留されており、広島を含めた中国地方では三次の愛光保健園(現在の広島県三次市愛光保育所の敷地)に収容された[4]。例えば、広島市内にある援助修道会(英語版)のカトリック三篠教会では被爆時、フランス人院長は結核により入院、イギリス人とベルギー人の修道女は敵国人として愛光保健園へ送られ、フランス2・イタリア2・アイルランド1・日本2の計7人の修道女とドイツ人神父1人の編成だった[4][5]。, 広島が原爆投下の第一候補に選ばれた理由の一つに、当時市街地に捕虜収容所がないとアメリカ側に思われていたことが挙げられる[6]。現在の広島市域では、第一次世界大戦後に似島に捕虜収容所(似島俘虜収容所)が設けられたことはあるが[7]、太平洋戦争中には収容所はなかった。, しかし実際には、アメリカ人捕虜が存在していた。呉軍港空襲の最終局面である1945年7月28日、アメリカ側は榛名や利根などを撃沈したが、日本側もアメリカ軍機を撃墜し生き残った乗員を捕虜として捕らえた[3][8]。以下、日本の民間団体や歴史研究家が取りまとめた当時の日本側の対応を示す[3][8]。, こうして7月28日のみの戦闘で捕虜となった中国憲兵隊司令部に残る12人が被爆することになる[8][3][9]。12人の乗員別内訳は以下のとおり(詳細は下記被爆者の項を参照)。, そして東京に移送され生き残った1人がB-24ロンサム・レディー号機長トーマス・カートライト少尉である[10]。当時憲兵による取り調べに対してB-24タロア号の捕虜は広島に強力な新型爆弾が落とされると答えていて、他の捕虜はそのことを知らなかった[9]。更に収監の間、捕虜どうしでの会話は禁止されていたため、被爆するまでそのことを知らなかった者がいたことになる。当時アメリカ人以外の連合国の捕虜は広島にはいなかった。, 1945年8月6日、広島市への原子爆弾投下。彼ら12人は広島城内にあった中国軍管区司令部・中国軍管区歩兵第一補充隊そして中国憲兵隊司令部の3箇所におり、複数の目撃証言によりほとんどが被爆当日に死亡したと考えられている[8][12][9]。, 有名な話として、相生橋そばに括りつけられたアメリカ人捕虜の死体の話がある[13]。この人物は多くの日本人に死体として目撃されており、そして後の調査でB-24ロンサム・レディー号通信士ヒュー・アトキンソン軍曹と確定している[12][9]。, この捕虜の目撃情報は「被爆当日(あるいは翌7日)、逃げていたアメリカ人捕虜を相生橋そばの電柱に括りつけ口々に罵り投石し私刑した」という風説となり、広島原爆文献の古典である今堀誠二著『原水爆時代(上)』などに記載されたことを通して間違った事実が広まることになる[12][13][9]。なおアトキンソンは電柱に括り付けられていたのを日本人により降ろされ荼毘に付され、後に原爆供養塔に遺骨が納められた[12]。これとは別に、広島城でも同様に縛られたアメリカ人捕虜の話がある[15][16]。, 上の憲兵の話のように被爆当日に死亡しなかった人物もいる。B-24ロンサム・レディー号射撃手ラルフ・ニール二等軍曹とSB2C射撃手ノーマン・ブリセット海軍三等航空兵曹は宇品に送られたが、同年8月19日放射線の影響で陸軍船舶練習部附属病院で双方死亡した[9]。2人の遺体は宇品憲兵隊隊長であった高橋太郎の命令で火葬され、陸軍病院近くに墓が建てられた。この時点で直接被爆者12人全員が死亡したことになる。, 入市被爆したアメリカ人捕虜も存在する。同年8月8日八幡空襲で日本側に撃墜されたB-29ニップ・クリッパー号の生き残った10人は、8月14日島根県美濃郡沖で救助され、8月15日(終戦日)益田駅から山口憲兵分隊、8月16日宇品に設けられていた中国憲兵隊臨時司令部に送られ、8月20日広島県向島にあった広島捕虜収容所向島分所へ送られた[8][17][18]。この宇品に収監されていた時期が入市被爆したことになり、彼らの中には直接被爆した2人であるニールとブリセットを8月19日に看取ったものもいる[18][19]。, アメリカ政府の見解は戦後しばらくの間「被爆したアメリカ人はいない」というものであった。日本側からすると相生橋のアメリカ人捕虜を多くの人が見ていたことから彼らの存在は早くから知られており、そしていろいろな情報・噂が錯綜し、捕虜の全体人数の把握に影響を及ぼした。その中で、マスコミによるスクープ、元広島女学院大学教授宇吹暁や地元歴史研究家森重昭らの尽力、そしてB-24ロンサム・レディー号機長トーマス・カートライト少尉の証言によって解明されていき、直接被爆した捕虜12人を断定した[3][9]。, 一方でアメリカ政府はその遺族に対し、終戦直後は「戦闘中日本上空で行方不明」と通達、翌1946年その中の何人かに「8月6日捕虜として日本に拘留中、戦死した」とGHQダグラス・マッカーサーがお悔やみ状を送っている[3][9][21]ものの、以降は対応していなかった。1983年初めて公的に被爆死した10人を認めることになるが、これ以外はアメリカ政府は認めていなかった[13][9]。2016年、バラク・オバマ大統領の広島訪問時の演説で"a dozen Americans held prisoner(捕虜となっていた十数人の米国人[22])"に言及し[23]、結果的にアメリカ政府は公的に10人以上いたことを認めたことになった。. . いつも人に感謝して生きるように子供達に言っていました。ところが被爆後の母は、完全に精神を病んでいました。心の中には姉しかいないようでした。 原爆投下から2日後、父方の祖母が東広島の西高屋から末娘(父の妹)を探しに広島にやってきました。 山田さんは長崎市鳴滝にあった県立・長崎中学校で原爆投下の瞬間を迎えた。当時、山田さんは旧制中学の2年生、14歳だった。学校は爆心地から約3.3キロのところにあった。 「原爆破裂時は、とにかくびっくりしました。大きい音と目が潰れるような光で、校舎も揺れて。教室の中の一人が咄嗟に『危ない!』と叫んで、みんな机の下に潜り込んだんです」 原爆の音と、校舎の壊れる音が静まり、気味が悪くなった山田さんは机 … In honor and memory of the U.S. Army Air Force and U.S. Navy airmen who lost their lives while prisoners of war at Hiroshima, Japan, the day of the bomb -- August 6, 1945. Sgt. 「アメリカ人の記憶にあるように、第二次世界大戦でアメリカは日本と戦い、とても多くの命が消えていきました。 それ以上のアメリカ人の命が失われることを防ぐ努力のもと、二つの原子爆弾が落とされました。」 ダイアン・ソイヤーは原爆投下の理由、 2nd/Lt. Hugh H. Atkinson -- USAAF 原爆投下後の入市被爆者も含め56万人が被爆したとされる 。 広島県 、広島市などを指す「 広島 」が「 ヒロシマ 」と 片仮名 表記される場合は、広島市への 原子爆弾 投下に関する言及である。 3日前に広島に世界で初めての原子爆弾が投下されました。 その3日後に長崎へ2発目の原子爆弾投下されましたが、もともとは福岡県小倉市が第一目標とされており、第二目標が長崎でした。 小倉市はもともと陸軍が駐在したり、兵器工場がある都市として軍事的に重要な都市でした。 広島原爆投下痔と同じように、8月9日当日朝の天候状況を確認したところ、朝霧がかかっていて目標ターゲットが目視で確認できなかったことにより、第一目標を小倉市から長崎市へ変更されたといわれています。 朝霧 … 今年も、子供達と話し合い、黙祷しました。72年前、広島で胎内被爆した実母と、被爆三世の私と四世の子ども達。広島、そして3日後に長崎へと、原爆が投下されたこの時期、少しでも、過去を思い出し、今、そして未来へと生かす時を持ちたいなと思っています。 以下、日本の民間団体・歴史研究家の調査で直接被爆にあったと断定されている人物と、同乗していた人物を挙げる。太字が被爆、斜字が捕虜になる前に死亡した人物[3][8]。, 実は捕虜以外にもアメリカ国籍の被爆者はいる。戦前期の広島県が「移民県」であったことを背景に、被爆当時の広島市には開戦以前に親戚への訪問や日本国内への進学を理由として来広し、開戦によりそのまま帰米不能となった多数の日系アメリカ人が在住し、被爆した[40]。またアメリカ系日本人としては、日本人との結婚で日本国籍を取得したのち、開戦直前に帰国した夫に同行して広島に在住していたところ、警察当局による軟禁状態のもと被爆した女性(1974年死去)の例が知られている[41]。, 伝統に則し、日系アメリカ人被爆者の多くは正式な日本のしつけを受けるため、日本に滞在していた(家族に会うため一時的に帰国していた者もいた)。真珠湾攻撃以降、彼らがアメリカに帰国することはかなわず、実に幾千もの名もなきアメリカ市民が原爆の永遠の被害者となった。広島では、日系アメリカ人被爆者が原爆の恐怖を体験し、多くが命を失い、家族を亡くし、身体的、精神的に深い傷を負った。終戦後、1947年初頭から約1000人(うち4分の3が女性)のアメリカ人被爆者がアメリカ(主にカリフォルニアとハワイ)への再移住を開始した[42]。1970年代前半、原爆投下から約30年後、アメリカ人ヒバクシャ(原爆後生き延びた者を日本語ではこう呼んでいる)は、アメリカ政府に無料の医療保障を求める積極的戦いを開始した。医療費無償化のためのこの戦いのリーダーの一人が、ミツオ・イノウエであった。彼は原爆被害者を救済するための戦いを自分自身の一生をかけた使命の一つとした。アメリカ人被爆者の多くが魅かれたのは、無料の医療保障の経済的側面だけでなく、それに象徴される、アメリカというるつぼの中の彼らの永続的居場所であった。最終的に日系人被爆者は、米国政府から無料の医療保障を受けることはできなかった。その最大の理由は、アメリカ国内の認識や見解が、放射能の影響、アメリカ人被爆者は市民ではなく敵国人であるということ、医療費の無料化または減額措置によって持ち上がるであろう経済に留まらない問題について、千差万別だったからである。アメリカ人被爆者の体験には、困難かつ度重なる暗い苦しみが潜んでいた。家族を奪われ重傷を負った、すべての被爆者の脳裏を離れない残酷な体験だけでなく、社会的疎外や国からの拒絶があった。彼らはこの国を祖国と考えましたが、国は彼らを敵国人と見なした。そして彼らは差別の対象となった。数十年もの間、多くの被爆者はその事実を隠し通した。就職や結婚に不利になるのを恐れてのこと。1965年8月6日、広島の原爆の日、日系アメリカ人新聞の『羅府新報』および『加州毎日』に、「広島と長崎の全被爆者への呼びかけ」1という広告記事が掲載され、アメリカ人被爆者が団結する初期の一例が世間に公開された。アメリカ人被爆者コミュニティに変化が訪れ、1970年、ついに原爆被害者協会(CABS:Committee for A-Bomb Survivors)が設立された。このグループを介し、日系アメリカ人はようやく医療費の無料化とアメリカ政府からの認知を求める戦いに乗り出した。 相関関係があるとしても因果関係の有無は断定できなかったが、公民権運動の激化は、政府に医療保障を求める被爆者の戦いが始まる時期とちょうど重なった。アメリカ人被爆者は、彼らが期待したアメリカ政府からの賠償は受けらなかったが、結果的に日本政府からの支援を受け入れた。日本では1970年代まで、国籍に関わらず日本在住の全被爆者の医療費を無償とする法案が可決されていた。しかし、日本政府の医療保障を利用したアメリカ人被爆者はごく少数であった。, バラク・オバマの広島訪問に先駆け、2016年5月22日、米国広島・長崎原爆被爆者協会(ASA)のメンバー4人が小東京の高野山米国別院に集まり会見を開いた。ASAによると、アメリカにはおよそ1000人の被爆者がいて、その多くが西海岸とハワイに暮らしているという[43][44]。, カリフォルニア州ローダイで生まれたヤマオカ・メイは9歳だった1938年に一家が日本に渡ったときのことを語った。1945年8月、ヤマオカは学徒動員で働いていた。原爆で命を落とさなかったのは、タバコ工場の中で高校の同級生と一緒に作業をしていた、13歳だった妹のマナさんは屋外で作業をしていた。ヤマオカさんと父親は長い捜索の末に、マナさんの遺体を爆心地の近くで見つけた。「私は米国人を少しも恨んではいない。あれは戦争だったし、両国とも自分たちは正しいことをしていると考えていた」「ただ、広島が原爆の標的となったのは不運だった。私たちは言わば一種のモルモットになった」と述べていた。, ”原爆投下、市民殺りくが目的 米学者、極秘文書で確認”朝日新聞(1983年8月6日), 被爆米兵のメッセージ A hidden story of the Hiroshima a-bomb, Remarks by President Obama and Prime Minister Abe of Japan at Hiroshima Peace Memorial, Speech by President Obama and Prime Minister Abe of Japan at Hiroshima Peace Memorial, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=広島原爆で被爆したアメリカ人&oldid=80019687, ルーパーと共に伊陸村で捕まり、光憲兵分隊柳井分隊→中国憲兵隊司令部。更に7月30日東京防衛総司令部に移送。, ニール・エリソンと共に高森町で捕まり、山口憲兵分隊→岩国憲兵分隊→中国憲兵隊司令部。, ニール・ロングと共に高森町で捕まり、山口憲兵分隊→岩国憲兵分隊→中国憲兵隊司令部。, エリソン・ロングと共に高森町で捕まり、山口憲兵分隊→岩国憲兵分隊→中国憲兵隊司令部。, ある憲兵が聞いた話によると、別の被爆した憲兵が翌7日瀕死の捕虜を発見し広島憲兵分隊(猫屋町の光道国民学校に駐屯)に連行しようとしたが憲兵自身も倒れそうになったためやむなく相生橋手前で捕虜を放置した、という。これは1971年広島市刊『広島原爆戦災誌』に記載された, 8月 : B-24ロンサム・レディー号射撃手ジョン・ロング伍長と所属不明トニー・某(航空)少尉の2人を初めて, 9月 : NARA、前年にUPI通信が発見した史料が機密解除となり正式公表、当時20人が捕虜として広島におり大半が陸軍航空隊員、17人が被爆当日に死去、2人が8月19日に負傷のため死亡, 1975年 : アマチュア歴史研究家の森重昭が、ロンサムレディー撃墜の事実を知り独自に調査を開始する, 7月 : ウブキズ・リストの内、9人は九州大学生体解剖事件などの旧日本軍による虐殺で死亡したことが判明。被爆捕虜11人, 1980年 : ゴードン・トマス、マックス・モーガン・ウイッツ著『エノラ・ゲイ―ドキュメント・原爆投下』(日本語版, 森はアメリカ公式発表の10人とウブキズ・リストの11人を更に検証し追跡調査として関係者に聞き取りを続けた結果、アメリカ公式発表のリストから漏れていた2人を探しだし、12人とされる, 2009年 : 森らの尽力により国立広島原爆死没者追悼平和祈念館への12人全員遺影付きの登録が完了, 原爆犠牲米軍人慰霊銘板 - 旧中国憲兵隊司令部、現在は民間のビルに設置された銘板。森が作り、刻まれた碑文はカートライトが思案したもの, 平和の碑 - 山口県柳井市伊陸のロンサム・レディーが墜落した現場近くに建立された慰霊碑, 1936年に帰米2世の両親のもとイースト・ロサンゼルスで生まれ、広島に住む祖父が病気で命が短いということで日本に会いに行った際、被爆した帰米3世ハワード蠣田は「謝るべきかどうか注目されているが、その必要はないし意味がない。あれからもう71年。オバマ氏が悪いのではない。謝るべきなのは原爆を落すと決めた当時のトルーマン大統領とその政権、そこに関わった人間だと思う」と述べている。, 1927年にパサデナで生まれた帰米2世の据石和は、生まれて8カ月で広島に移り18歳で被爆した。幼少時の据石の目には、B-29は「天使のように踊っていてきれいな飛行機」に映っていた。そして、広島湾あたりで白い点が見えて、なんだろうと指をさすやいなや、黄色いオレンジ色の強い光が放れて、目と耳を手で覆った、と当時を思い返す。据石は「戦争には双方に責任がある。けんかは1人でできないし必ず相手があること。日本もアメリカも戦争が始まって、互いに厳しい生活を強いられた」とし、謝罪をする必要はないと話す。, マウイ島で生まれ、 7歳で広島に移り18歳で被爆した更科洵爾はオバマが広島を訪問する様子をテレビで見て「被爆者として、同時にアメリカ国民としてとても嬉しかった。被爆者、アメリカ、日本をそれぞれきちんと立てて、政治的にもよくやったと思う。特に、献花し、亡くなった人たちに黙とうし、被爆者を胸に抱き寄せ、原爆資料館を訪問したシーンをみて感動した」とコメントした。, 1970年原爆死没者名簿に初めての被爆捕虜としてジョン・ロングが登録されたのは、上記のとおりマスコミ報道や日本人による目撃情報があったことに加え、彼の兄の息子つまり甥が宣教師で1967年来日し布教活動をしていて、その甥が名簿登録申請したことから。甥は20年以上日本で布教活動をしていて、その子どもつまりジョンの大甥にあたる人物は日本で生まれ育ち、そして2004年, 入市被爆者の1人であるマーティン・ザップは2005年に来日、救助された場所である現在の, 広告代理店に勤めていたバリー・フレシェットは自身の叔父が被爆したSB2Cヘルダイバー乗務員ノーマン・ブリセットと親友であることを知った. 壁に人の影とはしごの影が残っています。 高温の熱線で壁の塗装など一瞬で焼けるため、人がいたところだけが残っています。 同じようにこの影の人も熱戦を浴び、壁の塗装と同じ運命をたどったはずです。 これは広島の原爆資料館に展示されています。

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